母が凹んでいる。その理由は?
今朝、母の元気がない。どちらかというと凹んでいる。
「昨日赤飯炊くの忘れてた・・・」と。
昨日は父の誕生日。
毎年、父の誕生日には赤飯を炊き、ちょっと豪華な食事が作られる。
一昨日、「明日の晩御飯何するの?」と聞くと
「この間買った牛肉があるから焼くわ。父さん肉好きやし」と言っていた。
父の誕生日は覚えていたようだ。父も高齢なので最近は、薄切りの肉しか食べられなくなってきている。先日「しが割」で買った近江牛があるので、それにするようだ。
しかし、誕生日当日の夜、食卓には焼き魚が並んでいた。
「お肉にしなかったの?」と聞くと、
不機嫌気味に「時間がなかった」と母。
午後からパートに出かけており、帰宅が遅くなり時間がなくて焼き魚にしたようだ・・・ん?
焼き魚って結構焼くのに時間がかからない?
出来合いモノの焼き魚ではなかった。
これは帰宅が遅かったから「魚」というのが、本当の不機嫌の理由ではない。
忘れていたのだ。
前日まで覚えていたことが、当日忘れてしまう。
今しようとしていたことを忘れてしまうことは誰にでもある。
よくあることよ!と笑えそうな話だが、母の年代になると事は深刻である。
「始まってしまったかも・・・」と不安に苛まれるようだ。
そして、今朝までの凹みつながる。
毎年のこと、いつもしていたことができなくなる。
老化とはそういうことである。
年々できなくなることが増えていく。
歳を取ると低下するものには
視力(老眼)、聴力、体力、記憶力、筋肉量、運動能力、回復力、
病気への抵抗力、温度変化への適応力 などがある。
歳を取ると増加するものは
白髪、しみ、しわ、入れ歯、物忘れ、病気 などがある。
これらの症状が、顕著にみられるようになり、絶望感に見舞われる。ただ、徐々に変化するものであれば、諦めらがつくこともあるが、大きな失敗をすると自分の不甲斐なさを痛感し凹んでしまうのだ。
「今日炊いたらいいんと違う?」というと
「そういう問題じゃない」と母。
分かっているけど、それ以上に、かける言葉はない。
ただ、老化は退化だけではない。
時を重ねるということは、経験値があがり、知識量が増えているはずである。そこから、人間関係の幅が広がり、総合的な物事の判断ができるようになる時期を迎えている。人間の成熟期であり、悲観することはない。
しかし皆が皆、人間関係が豊かな「かわいいおじいちゃん、おばあちゃん」になっているわけではない。
頑固さがまし、融通が利かず、頑なな態度に、周りが困る姿をよくみかける。
祖父母がそうであったように。
過去の祖父母の姿や、今いる父のような「The・昭和の父」を反面教師とし、
これからの自分を作っていかなければならないと思う。
まだ、Maryはしっかりしているはずだ。
日々の運動を欠かさず、学ぶ機会をなくさず、豊かな人間関係の構築をしていこうと思う。とくに、お金では買えない「健康」や「心身機能の温存」は自分にしかできない。
高齢者を一様に機能の低下した存在だと考えることは、年齢に基づく差別「エイジズム」となる。今、先陣を切る元気な高齢者に「三浦雄一郎」氏や「黒柳徹子」氏がいる。不可能ではないはずである。
自分の最期のためにも
自分でできる行動を日々意識しようと思うMaryでした。