mary-lifeのブログ

きままな一人旅と価値ある時間をご紹介

あれから28年。これからの28年。歩む道を考える。

今から28年前の

1月17日は「阪神淡路大震災

その年は、社会人1年目だったのを記憶しています。

 

早朝、親に寝坊しているので、激しく揺すられて起こされてるなぁ・・・と寝ぼけていました。そして、薄っすらと目を開けた瞬間!天井の電気が大きく揺れているので、これは地震や!とそこで初めて気がつきました。しかも、そのときMaryの左足にはギブスがあり「逃げられない。この世の終わり💦」と思っていました。

地震がおさまって、すぐにテレビをつけても情報はありません。特に我が家に被害がなかったので、「あれ?夢だったのかな?」と半分半信半疑で普通の日常を送ることにしました。

 

朝、顔を洗い、着替えて、朝食をとり、出勤します。

なにぶん足がギブスなので、仕事へは友達の車に同乗し、送ってもらっていました。

8時ごろに職場(学校)に到着し、事務員として働き始めます。

事務室のテレビで地震の様子が映され語られますが、その時はまだ死者はごくわずか。火事の様子は見てとれますが「あんな地震やったのに、そこまでひどくなかったんや~」と安堵したのを覚えています。ただそれは単に、被害情報がテレビ局に集約されていなかっただけなのでした・・・

と、同時に事務室の電話が鳴り響きます。「出勤できない」「登校できない」との電話です。JRが動いていないとのことで、先生方も生徒たちも来れない状況になり、その日は休校となりました。

 

被害状況が見えてきたのは、夜になってからです。我が家は震源地からは遠いので、震度4でした。震度4でも初めての体験で、かなりの揺れでした。

 

翌日、我が家は、ゆで卵をたくさん作っていました。父が災害のボランティア(重機作業員)に行くのに、食べ物がないかも知れないからと、母が何度も何度も茹でていたのを覚えています。

 

阪神淡路大震災は、1995年1月17日 5時46分 直下型の地震でした。

多くの方が亡くなった原因が圧死

Maryの中学校の同級生も、大学の下宿先の1階で亡くなったと聞きました。

 

この災害以降、私たちの生活が大きく変りました。

①部屋にある家具の固定は、今や当たり前ですね。

②水道のレバーは、上から下に下げて水を出すタイプではなく、レバーを下から上に上げることで水が出るタイプに変更されました。上から落ちてきた物でレバーが押されて、大切な水が出しっぱなしになったことが教訓ですね。

そして、③建物の倒壊の現状から、耐震工事も大幅に進められたかと思います。

 

また、この地震のもう一つの大きな被害は、火災です。

地震発生から15分で火災が”60件”発生しています。

その時の神戸市の消防車は”40台”です・・・無理ですね💦

1つの火事に消防車って、何台も駆けつけててもなかなか消せていないですよね💦

 

では、教訓は生かされているのか?

京都市で見てみましょう。

 京都市人口  145万人

 京都市正規職員 10,000人

 消防職員 1,532人

 消防車両 93台

(内、ポンプ車38台、水槽車35台、はしご車14台、化学車4台、特殊災害対策車2台)

消防車足りてます?

市職員(公務員)は、災害時は市民のために働くことになっていますが、1人で何人を担当するのでしょう? 

 

身近な大津市でも確認します。

 大津市の人口 344,552人(R5)

 大津市職員数 2,285人

 消防職員数 320人

 消防車  28台(内、ポンプ車6台、水槽付ポンプ車4台、救助工作車3台、救急車10台、はしご付きポンプ車4台、化学消防車1台)

 

おおよそ

市町村の職員は、人口の100分の1(1人で100人を担当をするってことです)

消防職員は、1,000分の1

消防車は、10,000分の1

これが公助の限界です。

 

もちろん、公助に期待するものもありますが、このような大きな災害では、「自助、共助」が必要なのは明らかです。

 

自助:自分で自分を助ける

共助:みんなで助け合う

 

少なくとも1年に1度は、災害について考え、自分の身の回りのことを確認することから始めませんか?今は、情報社会です。すぐ最新の災害対策法が見つかります。自分にあった対策を実践していきましょう。

 

まずは、

消火栓がどこにあるのか、ご存じですか?

家の周りを見渡してください。ちゃんとありますよ('ω')

マッチの火は、コップ一杯の水で消火できます!火種の小さいときに消しましょう。

 

消火栓の位置は、ちゃんと理解している Maryでした。